天空の高野山・九度山(慈尊院)~町石道(ちょういしみち)22㎞を歩く - (近畿・東海近畿・東海|登山ツアー・ハイキングツアー・トレッキングツアー・ネイチャーツアーのことならアルプスエンタープライズ

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10:00~16:00(月~金曜) 土曜・日曜・祝日休み

天空の高野山・九度山(慈尊院)~町石道(ちょういしみち)22㎞を歩く

新

世界遺産

催行状況

ツアーコード HA20
出発日 2022年10月23日(日)
ツアー日数 3日間
旅行代金 108,800円
ツアーレベル( 登山ツアーLv2
最少催行人数 7名より催行
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ツアーポイント

◆大人の勉強会
天空の聖地 高野山
 標高約900m、蓮華のように八葉の峰々に囲まれた山上盆地に広がる高野山は、弘法大師・空海が開いた日本を代表する真言密教の聖地です。
 弘法大師は、密教の道場を開くのにふさわしい地として、都の喧騒から遠く離れた紀伊山地の雄大な自然に抱かれた場所を選びました。国、社会の安泰を祈り、人々のために活躍できる人材も育てたいという思いで活動します。そして、世の中の迷える人や苦しむ人を救うため永遠に祈り、深い瞑想に入りました。
 こうして弘法大師は奥ノ院に生き続け、世の中の平和と人々の幸福を願っているという大師信仰が生まれました。
 現在も高野山は、僧侶たちが修業を続ける学びの場であるとともに、多くの人々の信仰を集め、親しま

ツアースケジュール

(1)羽田空港(7:15頃)関西空港(8:35頃着)10:10発<リムジンバス>高野山奥之院前(11:55着) 奥之院:弘法大師御廟、刈萱堂、金剛峰寺、根本大塔、金堂、壇上伽藍、大門等真田昌幸・幸村父子ゆかりの宿坊【泊】[――夕]
(2)聖地へと続く祈りの道。
百八十基の道しるべが参詣者を導く。
聖地高野山への表参道である高野山・町石道約22?。
九度山の慈尊院から高野山へと続く道しるべが一町(約109メートル)ごとにたてられています。かつて弘法大師が開いたこの町を辿って、千二百年の歴史に思いを馳せてみませんか。
宿坊(867m)町石道(壇上伽藍、大門、四里石、袈裟掛石、矢立、袈裟掛石、笠木峠、二里石、応其池、二ツ鳥居(昼食)、古峠、六本杉、一里石、雨引山分岐、展望台(朝日・夕陽百選)、慈尊院(90m)九度山橋本:ビジネスホテル【泊】[---]
(3) 橋本高野山出発までお土産・ショッピング・自由散策等でお過ごし下さい。高野山(13:30発)<リムジンバス>関西空港(15:15着)羽田空港(20:00頃解散)[朝――]
歩行距離&時間 ?約4?・散策 ?約22?・約7時間 ?散策

世界遺産高野山・町石道(ちょういしみち)約22?
高野山町石道は、弘法大師・空海が高野山を開創した際、木製の卒塔婆を建てて道標とした表参道です。弘法大師はこの道を通り、月に9度は山をおりて麓の慈尊院に滞在していた母のもとに通われたといわれ、現在の地名「九度山」の由来となりました。やがて、大師信仰の広まりとともに多くの人々が参拝に訪れるようになり、高野山へ通じる七つの道が開かれ、「高野七口」と呼ばれました。中でも高野山町石道は主要参詣道として利用され、町石は単なる道標ではなく、参拝者が卒塔婆町石に礼拝をしながら山上を目指したことを今に伝えています。

高野山の歴史
弘法大師空海は二十歳で出家し、三十一歳の延暦二十三年(804)唐に渡る。都・長安で恵果阿闍梨と言う高僧について、真言の教えをうけ、二年余りで真言密教の奥義を極め、八人目の「阿闍梨遍照金剛」の称号を得、大同元年(806)に帰国し、真言密教を各地にひろめた。当時の帝、嵯峨天皇より高野山を賜り、弘仁七年(816)に諸弟子や工人等多数を伴って登山し、開創に着手された。これが高野山金剛峰寺のはじめといわれています。
二十年後、大師は六十二歳の承和二年(835)三月二十一日ご入定し、即身成仏を遂げられました。その後、高弟真燃大徳が中心となって、仏教修禅の大道場として栄えました。
現在は、伽藍と奥ノ院の両壇を中核に総本山金剛峯寺を始め百十七カ寺があり、神秘な霊場を形成しています。

空海のことば
ありがたや たかのの山の 岩かげに 大師はいまだ おわしましなる

虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん。

良工は先ずその刀を利ぎ、能書は必ず好?を用う。刻鏤、用に随って刀を改め、池に臨まば、字を遂って筆を変ず。

生れ生れ生れ生れて、生の始めに暗く、死に死に死に死んで、死の終わりに冥し。

閑林に独座す、草堂の暁、三宝の声、一鳥に聞く、一鳥声有り、人に心有り、声心雲水、倶に了々。

空海 弱冠より知命に及ぶまで、山藪を宅とし、禅燃を心とす。 人事を経ず、煩砕に耐えず。

ああ自宝を知らず、狂迷を覚と謂えり。愚に非ずして何ぞ。

1、弘法大師・空海とは
 弘法大師・空海は、宝亀5(774)年、讃岐国多度郡(香川県善通寺市)生まれ。延暦23(804)年、唐(中国)に留学して、真言密教のの最高権威(第七祖)恵果阿闍梨に出会い、その正式な継承者(第八祖)となり、大同元(806)年、帰国しました。平安時代初期の日本が生んだ最高の哲学者にして、美しい文章を流麗な筆致で綴る超一流の文学者。人々のために泉を掘り当て、池を修築する社会事業家。そしてなによりも生きとし生けるの幸せをひたすら祈る宗教者でした。弘仁7(816)年、高野山に「修禅の一院」金剛峰寺を創建。承和2(8.35)年、同山にて入定。
2、真言密教とは
一般の仏教では、人が悟りに達するには、気の遠くなるほど長い時間と厳しい修業が必要であると教えます。これに対して真言密教では、この身このままで仏になることができる(即身成仏)と説きます。すなわち、手に印を結び、口に真言を唱え、一心不乱に本尊を観念するならば、その人が本来持つ仏性が顕現して、悟りを得ることができるとするのです。
3、高野山とは
高野山は、高さ十六丈(約48.5m)の根本大塔が聳える壇上伽藍を本部にした「学問の道場」であるとともに、奥之院の弘法大師御廟を中心とした「信仰の霊場」です。
十六世紀に来日したイエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルは、高野山は「中世日本の六大学」の一つであると記し、同時期の宣教師、ルイス・フロイスは、「高野山は、日本中でもっとも多くの人々が参詣する巡礼地の一つである」と述べています。
弘法大師は今もなお奥之院の御廟内に生身(いきみ)のままでおわされていて、五十六億七千万年後に弥勒菩薩がこの世に出現するその時まで、人々を救い続けている、とかたく信じられています。

壇上伽藍(国指定史跡地域)
弘法大師空海の高野山開創の目的は、人々が厳しい修業によって悟りを開くための真言密教の根本道場として伽藍を創設することであった。そのため開創当初にこの地が拓かれ、まず講堂(金堂)が創建され、続いて鎮守として丹生・高野両大明神が勧請され、引き続き大塔その他の諸堂が建立された。なかでも大塔の造営は、大事業で大師と、その後大師の志を継いだ真燃大徳の二代にわたって完成したものである。現在は、不動堂(国宝)を除く他の建物は、落雷等で焼失し再建されたものである。

金堂
伽藍の中央にある一山の総本堂で、高野山の主な行事は、ここで執り行われる。弘仁10年(819)に創建。現在の建物は、7度の焼失で昭和7年(1932)に再建されたものであり、本尊は、高村光雲作の薬師如来(阿闍如来)。壁画は、木村武山画伯の筆、両界曼荼羅は平清盛が自らの額を割った血で中尊を描かせた「血曼荼羅」である。

根本大塔
弘法大師空海が高野山を開創され、真言密教の根本道場として着手されたのがこの建物である。朱色に映え立派さと大きさに眼をうばわれるこの建物は、6年の歳月をかけ、昭和12年(1937)に再建されたものであり、高さ約49メートル、約24メートル四面の威容を誇る。真言密教のシンボルでもある。多宝塔としては日本で最初のものである。

金剛峰寺
高野山真言宗の総本山で全国に約3600ヶ寺の末寺を有する。山上のほぼ中央にあり、弘法大師空海が開創した当時は、高野山全域を金剛峰寺と称した。現在の金剛峰寺は、文禄2年(1593)豊臣秀吉が亡母の菩提を供養するために木食応其上人に命じて建立した青巌寺・興山寺を明治2年(1869)に合併し、総本山金剛峯寺と改称した。

奥ノ院(国指定史跡地域)
一の橋から弘法大師御廟までの約2?の参道の両側には、樹齢数百年の杉の大樹とともに歴史に名を残す諸大名などの20万基を超える墓碑や供養塔が立ち並んでいる。老杉から差す神々しい光に浮かび上がる苔むした墓石群は永い歴史を感じさせる。

弘法大師御廟
大師信仰の中心聖地。高野三山(転軸・楊柳・魔尼)に囲まれた台地にあり、その山裾を玉川が清く流れる。大師は、この地を入定留身の地として、自ら定められていたという。承和2年(835)3月15日から大師は禅定に入られ、21日には、結??座して、そのまま宛燃として生きるがごとくご入定された。その窟の上に、3間、4面の宝形造りの廟が建立されました。ご入定後の延喜21年(921)10月22日、醍醐天皇は「弘法大師」号を贈られるとともに、檜皮色の香衣一着を御下賜になり、それ以来、毎年3月21日には、御衣替の儀式が今も行われている。

慈尊院
弘仁7(816)年、弘法大師・空海が、高野山開創に際し、高野山参詣の要所にあたるこの地に表玄関として創建しました。
空海の母は讃岐国から訪ねてこられましたが、当時高野山は女人禁制であったため、お山に参詣することができず、亡くなるまでこの地に滞在しました。子授け、安産祈願など女性にご利益のある寺院として有名です。

高野山 蓮華定院(れんげじょういん)
昌幸・幸村が徳川家康に命じられ、蟄居したお寺。以来真田家とは縁を深め、境内に入ると真田家の家紋「六文銭(六連銭)」がいたるところに見られます。また、幸村の書状や重要文化財に指定されている剣など寺宝も多くあります。 ※蟄居(自宅に謹慎すること。刑罰のひとつ)

禅名称院(真田庵)
高野山の冬が厳しかったため、昌幸・幸村は山麓の九度山に庵を移しました。その跡地に建つのが、禅名称院(真田庵)です。父子は再起をを待っていましたが、父昌幸はこの地で慶長16(1611)年に65歳で亡くなりました。幸村は大坂の陣で豊臣方の武将として出陣しますが、慶長20(1615)年大坂夏の陣にて茶臼山付近で激戦の末、壮烈な最後を遂げました
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ツアーリーダー

ツアーリーダー1

岡本 功
「大きなアメリカよりも小さな確かなスイス」を目指す、そんな登山ツアーを実践してまいります。かつては北アルプスに明け暮れ、今は北海道の利尻・礼文から沖縄の西表島まで、主に花中心のツアーをご案内させていただきます。「愛と感動」の山旅案内人です。
(公社) 日本山岳ガイド協会 認定ガイド

お客様の声

お客様の声1

 一度は行って見たいと思っていた高野山にこられて良かったです。町石道、長くて大変だったけれど、とても良かったです。宿坊も大満足でした。どうもありがとうございました。川崎市K様 

お客様の声2

 一度来てみたかった高野山の町石道。ゆったりとした時間を過ごすことが出来ました。紅葉も見事でした。三日間楽しい時間を有難うございました。 大田区T様 
町石道をたどりながら高野山を知り大満足の山旅でした。お天

お客様の声3

町石道をたどりながら高野山を知り大満足の山旅でした。お天気も良く楽しかったです。ありがとうございました。 府中市S様 
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