催行状況
ツアーコード | CA01 |
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出発日 | 2022年1月22日(土) |
日数 | 2日間 |
旅行代金 | 47,000円 |
ツアーレベル(!) | 登山ツアーLv2 |
洋上の富士山と南伊豆の山々を望む
かつては“伊豆の秘境”と呼ばれていた松崎町南部の岩地・石部・雲見の三地区を総称して地元の人は三浦(さんぽ)と呼んでいた。
高通山は、標高519メートルの低山ではあるが、山頂から北に西伊豆の海岸線んと富士山、西に御前崎方面、南に伊浜から変化に富んだ伊豆西南海岸が望め、期待以上の素晴らしい景観が得られます。
鎌倉殿と13人の武将
日本の歴史上初めての集団指導体制が発足。
平氏との戦いを制し、日本初の本格的な武家政権である鎌倉幕府を樹立した源頼朝。だが、その頼朝が、建久10(1199)年急死してしまう。
死因は、前年の落馬というのが定説だ。しかし、詳細は明らかになっておらず、陰謀説なども囁かれている。
頼朝亡きあと、2代将軍となったのが、21歳の嫡男・源頼家だった。だが、年若い頼家はまだ頼りなく、さらに鎌倉時代の史書『吾妻鏡』などにによれば、暗君であったともいう。
そこで、有力御家人をはじめとする幕府の中核にいた13人が選出され、合議制が導入された。この仕組みにより、若年の頼家を支えると同時に、頼家の権限を制限し、鎌倉殿の暴走を抑えようとしたのである。
このような合議制で国家を運営する集団指導体制は、日本の歴史上初のことだった。しかも、13人のメンバーには、将軍家の縁戚もいたが、まったく縁戚関係のない御家人や、公家出身の文官などもおり、バラエティに富んでいた。その多様性もまた、きわめて画期的なものだった。
① 頼朝の死(1199年1月3日)享年53歳
② 頼家が鎌倉殿を相続
13人の合議制が成立
13人の合議制で、最初に起きた争いが「梶原景時の変」だ。頼朝・頼家と将軍2代にわたって重用されていた景時は、御家人たちの反感を買い66名が署名した談判状によって鎌倉を追放されてしまう。ただ、この追放劇は、裏で、北条時政が糸を引いていたという説が根強い。時政には、幕府の実権を握りたいという野心があったのである。
その証拠に、建仁3(1203)年には、13人の合議制の有力メンバーだった比企能員が時政を追悼する陰謀を企てた疑いで、時政に謀殺されるという事件が起きる。
これを「比企能員の変」という。だが、この変もライバルを蹴落とすための時政の陰謀だったといわれる。
しかし、そんな時政も、父の横暴を危惧した娘の北条政子と息子の義時によって、元久2(1205)年に政権から追放されてしまうのだ。“13人”は決して盤石ではなかったのである。
<北条氏>北条時政・北条義時
<文官>大江広元・三善康信・中原親能・二階堂行
<御家人(武士)>梶原景時・和田義盛・比企能員・三浦義澄・八田知家・安達盛長・足立遠元、