伊豆の展望の山(一等三角点)2座と魚料理で舌鼓
伊豆半島に3山しかない展望秀逸の一等三角点の山の2山(あと一つは天城山)を歩きます。宿泊は魚料理が評判の伊豆松崎温泉の「豊崎ホテル」です。
鎌倉殿と13人の武将
日本の歴史上初めての集団指導体制が発足。
平氏との戦いを制し、日本初の本格的な武家政権である鎌倉幕府を樹立した源頼朝。だが、その頼朝が、建久10(1199)年急死してしまう。
死因は、前年の落馬というのが定説だ。しかし、詳細は明らかになっておらず、陰謀説なども囁かれている。
頼朝亡きあと、2代将軍となったのが、21歳の嫡男・源頼家だった。だが、年若い頼家はまだ頼りなく、さらに鎌倉時代の史書『吾妻鏡』などにによれば、暗君であったともいう。
そこで、有力御家人をはじめとする幕府の中核にいた13人が選出され、合議制が導入された。この仕組みにより、若年の頼家を支えると同時に、頼家の権限を制限し、鎌倉殿の暴走を抑えようとしたのである。
このような合議制で国家を運営する集団指導体制は、日本の歴史上初のことだった。しかも、13人のメンバーには、将軍家の縁戚もいたが、まったく縁戚関係のない御家人や、公家出身の文官などもおり、バラエティに富んでいた。その多様性もまた、きわめて画期的なものだった。
? 頼朝の死(1199年1月3日)享年53歳
? 頼家が鎌倉殿を相続
13人の合議制が成立
13人の合議制で、最初に起きた争いが「梶原景時の変」だ。頼朝・頼家と将軍2代にわたって重用されていた景時は、御家人たちの反感を買い66名が署名した談判状によって鎌倉を追放されてしまう。ただ、この追放劇は、裏で、北条時政が糸を引いていたという説が根強い。時政には、幕府の実権を握りたいという野心があったのである。
その証拠に、建仁3(1203)年には、13人の合議制の有力メンバーだった比企能員が時政を追悼する陰謀を企てた疑いで、時政に謀殺されるという事件が起きる。
これを「比企能員の変」という。だが、この変もライバルを蹴落とすための時政の陰謀だったといわれる。
しかし、そんな時政も、父の横暴を危惧した娘の北条政子と息子の義時によって、元久2(1205)年に政権から追放されてしまうのだ。“13人”は決して盤石ではなかったのである。
<北条氏>北条時政・北条義時
<文官>大江広元・三善康信・中原親能・二階堂行
<御家人(武士)>梶原景時・和田義盛・比企能員・三浦義澄・八田知家・安達盛長・足立遠元、
岡本 功
「大きなアメリカよりも小さな確かなスイス」を目指す、そんな登山ツアーを実践してまいります。かつては北アルプスに明け暮れ、今は北海道の利尻・礼文から沖縄の西表島まで、主に花中心のツアーをご案内させていただきます。「愛と感動」の山旅案内人です。
(公社) 日本山岳ガイド協会 認定ガイド