催行状況
ツアーコード | CG40 |
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出発日 | 2023年12月16日(土) |
日数 | 日帰り |
旅行代金 | 6,000円 |
ツアーレベル(!) | 登山ツアーLv1 |
募集人員 | 8名様 |
最少催行人数 | 5名様より催行 |
添乗員 | なし (集合場所よりガイドが同行します) |
<参考図書>
『三浦半島記 街道をゆく42』 司馬遼太郎著 朝日新聞社
三浦半島、山から海へ南北ハイキング
相模の田野を開発し、戦乱に巻き込まれていった「もののふたち」の面影を求めて、埋もれた館跡や緑陰の古社寺を訪ね、激動の中世を生きた三浦一族を偲びます。
鎌倉殿と13人の武将
日本の歴史上初めての集団指導体制が発足。
平氏との戦いを制し、日本初の本格的な武家政権である鎌倉幕府を樹立した源頼朝。だが、その頼朝が、建久10(1199)年急死してしまう。
死因は、前年の落馬というのが定説だ。しかし、詳細は明らかになっておらず、陰謀説なども囁かれている。
頼朝亡きあと、2代将軍となったのが、21歳の嫡男・源頼家だった。だが、年若い頼家はまだ頼りなく、さらに鎌倉時代の史書『吾妻鏡』などにによれば、暗君であったともいう。
そこで、有力御家人をはじめとする幕府の中核にいた13人が選出され、合議制が導入された。この仕組みにより、若年の頼家を支えると同時に、頼家の権限を制限し、鎌倉殿の暴走を抑えようとしたのである。
このような合議制で国家を運営する集団指導体制は、日本の歴史上初のことだった。しかも、13人のメンバーには、将軍家の縁戚もいたが、まったく縁戚関係のない御家人や、公家出身の文官などもおり、バラエティに富んでいた。その多様性もまた、きわめて画期的なものだった。
⑦ 頼朝の死(1199年1月3日)享年53歳
⑧ 頼家が鎌倉殿を相続
13人の合議制が成立
13人の合議制で、最初に起きた争いが「梶原景時の変」だ。頼朝・頼家と将軍2代にわたって重用されていた景時は、御家人たちの反感を買い66名が署名した談判状によって鎌倉を追放されてしまう。ただ、この追放劇は、裏で、北条時政が糸を引いていたという説が根強い。時政には、幕府の実権を握りたいという野心があったのである。
その証拠に、建仁3(1203)年には、13人の合議制の有力メンバーだった比企能員が時政を追悼する陰謀を企てた疑いで、時政に謀殺されるという事件が起きる。
これを「比企能員の変」という。だが、この変もライバルを蹴落とすための時政の陰謀だったといわれる。
しかし、そんな時政も、父の横暴を危惧した娘の北条政子と息子の義時によって、元久2(1205)年に政権から追放されてしまうのだ。“13人”は決して盤石ではなかったのである。
<北条氏>北条時政・北条義時
<文官>大江広元・三善康信・中原親能・二階堂行
<御家人(武士)>梶原景時・和田義盛・比企能員・三浦義澄・八田知家・安達盛長・足立遠元、
三浦義澄:源頼朝の腹心として数々の戦場で戦う、北条氏に警戒されて滅ぼされる。
三浦氏は先祖代々、源氏に仕える武士集団だった。源頼朝が挙兵すると、三浦氏の当だった義澄も一族をあげてこれに参戦。「一の谷の合戦」や「壇ノ浦の戦い」、「奥州合戦」で武功を挙げた。
その功により、鎌倉幕府成立後、義澄は相模の守護となり、有力御家人の地位を確立する。 13人の合議制がとられた際も、将軍家に近い宿老(しゅくろう)として、その一員に選ばれた。同じ13人の合議制の仲間であった梶原景時が討ち死にした6日後に病死してしまい、早々に13人のなかから姿を消す。
ただその後も義澄の嫡子・義盛は幕府の中で政治の中枢を担った。
和田義盛:源平合戦で総大将を務める、平氏討伐の立役者で侍所初代別当に抜擢
三浦氏の一族だが、相模国三浦郡和田を本拠とし、和田姓を名乗った。三浦義澄は叔父にあたる。
義澄とともに、源頼朝が挙兵するとこれに参加、。平家討伐において、侍大将として実質的に軍政を指揮した。さらに、治承4(1180年)年に、軍事、治安、警察を司る侍所が設置されると、その初代別当に抜擢される。
13人の合議制成立後は、北条時政が裏で糸を引いていたとされる梶原景時追放の際には中心的役割を担った。その後も、「比企能員の変」、「畠山重忠の乱」でも時政の側につき、討 伐に力を貸した。
だが時政が死ぬと、幕府の実権を握った北条義時の挑発に乗り、挙兵してしまう。
大江広元:その血脈は毛利元就に繋がる、文官のトップとして幕府の基礎を作る
大江広元は、もとは京都の朝廷に努める下級貴族だったが、元暦元(1184年) 年に鎌倉に下り、源頼朝の家臣となった。
このとき、頼朝との仲立ちをしたのは、同じ下級貴族の出で、すでに頼朝の家臣となっていた中原親能だという。
頼朝の下で広元は文官としての手腕を発揮。政治・行政を司る政所の前身である公文所別当を務め、政所設置後は初代別当を務めた。また頼朝が設置した守護・地頭も、広元の発案だという説もある。
13人の合議制が成立すると、文官のトップとして選出。だが、ただの文官ではなく、「承久の乱」が起きた際には、強硬策を主張し、御家人たちを団結させた。
出発日:2024年1月21日(日)
ツアーコード:CG44
地域:関東
出発日:2023年12月17日(日)
ツアーコード:CG42
地域:関東
出発日:2023年12月24日(日)
ツアーコード:CG04
地域:関東